許禰神社例祭 歴史編 その1

祭好4人衆

2009年01月20日 20:15

共盛社Mです。

そんなわけで 今回より 見切り発信ですが 歴史編をスタートします。

書物があまり残っていない 三倉の祭りです。

数少ない状況証拠と 言い伝えや話の中での言葉などで

共盛社Mが 自分の解釈と一部仮説で お送りします

事実と違う 自分はこう聞いたなど ございましたら

速攻で訂正させていただきますんで お気軽に コメント願います。

それと以前に ご紹介させてもらった事も改めて紹介させていただきますので あしからず

それでは 旧三倉村 三倉とはからです。

三倉に御こしの方はお分かりと思いますが、三倉は一昔前の街?の雰囲気が残っています。

江戸時代中期までは おおむね他の三倉地区と同じように山間の集落という感じの地区でしたが

江戸中期以降 秋葉詣でが盛んになり 以前からの塩の道などの影響もあり

又 交通の要所としての地形てきな場所も手伝い この三倉は 小さな宿場町となりました。

主な交通手段が徒歩や馬の時代 旅館を営業するため さまざまな商店もできました。

食事の提供など 八百屋や食料品店 洋服や 燃料の炭 酒屋や医者など

そして芸者衆

山間に小さな街が形成されていきました。

当時の街道は 東海道のような整備された道ではなく川沿いの道や峠越えなど

複数の道で形成されていたようです。

明治以降になると 道路が整備されていきますが まだまだ主な交通手段は徒歩です。

交通の要所として、又 三倉村役場がこの地に設置され三倉村の中心として形成されていたようです。

 

さてでは祭りはどうだったのと言うと この時代まだ許禰神社はこの地にありません。

四社の各地区には 各々氏神様があり祀られていました。

当然各神社でお祭りが行われていたようです。

が 今のような屋台が曳きまわされるのは 明治末期からになります。




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